東京国立博物館

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東京国立博物館(とうきょうこくりつはくぶつかん)は、我が国最初の人文系の総合博物館である。日本を中心として広くアジア諸地域にわたる文化財について、収集、保存、管理、展示、調査研究、教育普及事業等を行う。独立行政法人国立文化財機構が運営する。

歴史[編集]

創立[編集]

1871年(明治4年)文部省に博物局が設置された。 1872年明治5年)3月10日文部省博物局により湯島聖堂大成殿を会場として日本初の博覧会が開かれた。会期は20日間で、午前9時から午後4時までの開館時間であった。この博覧会の陳列品は、広く全国に出品を呼びかけて収集した。博覧会に観覧者が多いため入場制限し、会期を4月末日まで延長した。博覧会の入場者総数は15万人、1日平均では約3,000人の観覧者であった。当時の広告や入場券には「文部省博物館」と明記されていた。政府によるわが国最初の博覧会の開催であり、東京国立博物館はこの年を創立・開館の時としている。同年8月、湯島旧聖堂内の大講堂において現在の図書館にあたる書籍館が開館する。当時は動物園、植物園を含む総合博物館が構想されていた。

ウィーン万博=[編集]

1873年(明治6年)、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の冶世25周年を記念して、ウィーン万国博覧会が開催された。万国博覧会への公式参加要請を受けた日本政府は、博覧会事務局を設置し、大隈重信佐野常民を中心に陳列品収集などの準備を明治4年から開始していた。ウ ウィーン万国博覧会は、5月1日から11月2日までの約半年間に渡り開催された。日本から官員・通訳41名、建築庭園関係者など25名、外国人6名、合計72名のほか、西洋の優れた機械技術伝習のため、24名の技術者がウィーンへ派遣された。1875年(明治8年)、佐野常民は16部96巻のウィーン万国博覧会報告書を政府に提出した。

第1回内国勧業博覧会[編集]

1873年(明治6年)、ウイーン万国博覧会参加のため、博覧会事務局に博物館・書籍館が合併し、内山下町(千代田区内幸町)に移転する。これ以後、上野公園に移転する1881年(明治14年)まで博物館はこの地にあった。 1875年(明治8年)、博覧会事務局が内務省の所管となり博物館と改称する。 1877年(明治10年)、上野の寛永寺本坊跡地で第1回内国勧業博覧会が開催された。 古器物・動物・植物・鉱物・農業・舶来品など7棟で、ほかに動物飼養所・熊室・温室などが陳列された。

上野移転[編集]

明治10年(1877年)、太政官より上野移転の裁可を得て、コンドル設計の本館は1881年(明治14年)1月に竣工した。現在の本館とほぼ同位置である。煉瓦造、2階建、正面左右に小ドームの屋根飾りをつけている。付属館として第1回内国勧業博覧会の美術館がそのまま利用された。1886年(明治19年)に宮内省に移管され、明治21年(1898年)に宮内省図書寮の付属となる。

帝国博物館[編集]

1889年(明治22年)には帝国博物館となった。総長に九鬼隆一、美術部長に明治時代の美術界をリードした岡倉天心が就任する。あわせて、帝国京都博物館、帝国奈良博物館を設置。アメリカ美術史家のアーネスト・フェノロサも美術部理事となっていた。 帝国博物館は1900年(明治33年)、東京帝室博物館と改称した。大正14年(1925年)には長年の懸案であった動・植・鉱物標本を主とする天産部関係資料の東京博物館(現国立科学博物館)等へ譲渡し、京帝室博物館は美術博物館としての性格を鮮明にした。 1936年(昭和11年)、応挙館・九条館を裏庭に移築する。1941年(昭和16年)、戦争被害を避けるため美術品の疎開がはじまる。

戦後[編集]

1946年(昭和21年)、3月観覧を再開する。新憲法である日本国憲法が公布された1947年(昭和22年)5月3日に帝室博物館は皇室から国に移管され、再び文部省所管の博物館となり、名称は国立博物館に改められた。1952年昭和27年)3月には東京国立博物館と改称された。 1968年(昭和43年) 、文化庁の発足により同庁に移管。 1968年(昭和43年)10月には東洋館が開館し、日本以外のアジアの美術品が集められた。1974年(昭和49年)、 モナ・リザ展開催。入場者は過去最高の151万人を記録する。平成11年(1999年7月、法隆寺宝物館(新館)開館。10月皇太子殿下御成婚を記念して平成館が開館した。平成13年(2001年)、東京国立博物館、京都国立博物館奈良国立博物館の3館を統合した独立行政法人国立博物館を設立した。平成19年(2007年)、独立行政法人国立博物館と独立行政法人文化財研究所が統合され「独立行政法人国立文化財機構」が発足した。

参考文献[編集]