「微笑み」の版間の差分

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なお、[[赤ちゃん|新生児]]は感情表現とは別に自然と微笑む(ような表情をみせる)「新生児微笑」を行う。この新生児の微笑行動は、人に限らず、[[サル|猿]]の赤子にも見られる<ref>参考:[[読売新聞]]2001年11月16日(金曜)付、記事に猿の微笑写真も載せられている。</ref>(後述)。
 
なお、[[赤ちゃん|新生児]]は感情表現とは別に自然と微笑む(ような表情をみせる)「新生児微笑」を行う。この新生児の微笑行動は、人に限らず、[[サル|猿]]の赤子にも見られる<ref>参考:[[読売新聞]]2001年11月16日(金曜)付、記事に猿の微笑写真も載せられている。</ref>(後述)。
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== 日本人の悲しい時に作る微笑みの文化 ==
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日本人の不自然な微笑に関しては、[[小泉八雲]]の『日本瞥見記』内の「日本人の微笑」において語られており、「愛する人が亡くなった重大な時にこそ、みだりに表情を表すことを控え、むしろ笑みを浮かべることを美徳としていた」とし、そうした日本人の美徳を外国人である小泉自身は不可解であったと記している。この日本人独特の微笑の不可解さは、[[新渡戸稲造]]著の『武士道』内においても説明されている(外国人女性のケース、すなわち男女にかかわりなく、日本人の微笑は不可解に見られていた)。「悲しい時の微笑」を日本人独特とするのは、小泉自身が[[韓国]]にも旅をしており、葬式を見学した際、肉親のほとんどが大声をあげて泣いており([[泣き女]]も参照)、日本の葬式では見られないほど、率直な感情の吐露がみられたことによる。『武士道』内の説明によれば、悲しい時の微笑は、相手を気遣わせないための配慮であり、他人を心配させないための表情であるとしている。
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本来なら悲しむ時の状況であるにもかかわらず、作られる微笑み習慣は、現代でも一部で見られる<ref group="*">Eテレ 『[[100分de名著]]』「武士道」内で紹介されている。1990年代に海外の戦争で亡くなった日本人男性の遺族が見せた話が語られている。</ref>。
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2010年の日本とオランダの大学による共同実験においても、日本人は文化的に本当の感情を出さない傾向があり、否定的感情も笑顔で取りつくろうため、感情を読み取る際、「顔」ではなく、「声」の方を重視することがわかっている<ref>参考:[[朝日新聞]]2010年12月3日(金曜)付、記事を一部参考。</ref>。声までは偽装しにくいためと考えられている<!-- 同朝日記事を参考 -->(微笑みが本心ではなく儀礼的というのは、日本人間では共通認識)。これに対し、オランダ人は感情を顔の表情で読み取っていたという結果が出ている<!-- 同朝日記事を参考 -->。このため、文化的誤解が生じやすい。
  
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==

2019年11月26日 (火) 11:15時点における版

ほほえみ(漢字表記では「微笑み」あるいは「頬笑み」、:sorriso、souriresmile)とは、ほほえむことで[1]、ほほえむとは声をたてずに、にこりと笑うこと[2]。「微笑(びしょう)」とも。また、ほほえんでいる顔は笑顔(えがお)とも呼ばれる。近代では、"微笑の笑み"という言葉も存在している。

概説

ほほえみとは、声をたてずに、ニコリと笑うことである。人間表情のひとつで、嬉しさの現れであったり、好意の表現や、敵意を持たないこと表現するために使われる。

笑顔には、自然な笑顔と不自然な笑顔があると指摘されることがある。まず心に嬉しさがあって自然に出ているほほえみと、そうではなく、内心嬉しいとは感じていないのに意識的に表情筋を動かして作っている笑顔がある、と指摘されているのである。

人のコミュニケーションの研究者や、あるいは嘘の研究者は、自然な笑顔は、眼もとまわりの表情筋が中心になって動き、つまり眼もとまわりがゆるんでほほえむ、という(わずかに「たれ目」ぎみになる[* 1])。それに対して、意図的・作為的に作られた笑顔というのは、口もとあたりの表情筋肉が主に動いていて、しばしば眼元の表情筋がほとんど動かない、と指摘されている。口の端だけが引っ張られてつりあげられたような笑顔というのは、心に喜びがあってでた笑顔ではなく、意図的あるいは作為的に作っている笑顔だと指摘されているのである。

相手が心から喜んでいるか、それともそうでないか見分けるためには、口元は無視して、眼元をよく観察すれば分かる、ということになる。

眼元もわらっていて、なおかつ口元もわらっていれば特には問題は無い。だが、もしも口元は引っ張りあげられて笑っているような形になっていても、眼元が明らかに笑っていない場合は、あくまで無理に笑顔をつくろうとしており、本心ではむしろ不快に思っている場合がほとんどで、要注意であり、顔を見ている人(=あなた)が抱く印象を操作することで商売をうまくすすめようとしたり、時に、だまそうとしている可能性もあり、笑顔と言っても、むしろ要注意な場合があるという。

しばしば社会では、意識的に作られた微笑みが用いられている。例えば、ビジネスの場や、商店で従業員がお客に接する時などは、特に感情が無くても、とりあえず少なくとも敵意は持っていないということを示すために、挨拶の時などに笑顔を作ってみせる、ということは広く行われている。作り笑いであることを理解した上で成り立っている。

なお、新生児は感情表現とは別に自然と微笑む(ような表情をみせる)「新生児微笑」を行う。この新生児の微笑行動は、人に限らず、の赤子にも見られる[3](後述)。

日本人の悲しい時に作る微笑みの文化

日本人の不自然な微笑に関しては、小泉八雲の『日本瞥見記』内の「日本人の微笑」において語られており、「愛する人が亡くなった重大な時にこそ、みだりに表情を表すことを控え、むしろ笑みを浮かべることを美徳としていた」とし、そうした日本人の美徳を外国人である小泉自身は不可解であったと記している。この日本人独特の微笑の不可解さは、新渡戸稲造著の『武士道』内においても説明されている(外国人女性のケース、すなわち男女にかかわりなく、日本人の微笑は不可解に見られていた)。「悲しい時の微笑」を日本人独特とするのは、小泉自身が韓国にも旅をしており、葬式を見学した際、肉親のほとんどが大声をあげて泣いており(泣き女も参照)、日本の葬式では見られないほど、率直な感情の吐露がみられたことによる。『武士道』内の説明によれば、悲しい時の微笑は、相手を気遣わせないための配慮であり、他人を心配させないための表情であるとしている。

本来なら悲しむ時の状況であるにもかかわらず、作られる微笑み習慣は、現代でも一部で見られる[* 2]

2010年の日本とオランダの大学による共同実験においても、日本人は文化的に本当の感情を出さない傾向があり、否定的感情も笑顔で取りつくろうため、感情を読み取る際、「顔」ではなく、「声」の方を重視することがわかっている[4]。声までは偽装しにくいためと考えられている(微笑みが本心ではなく儀礼的というのは、日本人間では共通認識)。これに対し、オランダ人は感情を顔の表情で読み取っていたという結果が出ている。このため、文化的誤解が生じやすい。

脚注

注釈

  1. 相対的に言うと、人は怒っている時には普段よりも眼の端が上がる傾向がある。だからこそ「あなた彼に何を言ったの? 彼、ブリブリ怒って、眼がつりあがっていたわよ。」などと言うのである。
  2. Eテレ 『100分de名著』「武士道」内で紹介されている。1990年代に海外の戦争で亡くなった日本人男性の遺族が見せた話が語られている。

出典

  1. 広辞苑「ほほえみ」
  2. 広辞苑「ほほえむ」
  3. 参考:読売新聞2001年11月16日(金曜)付、記事に猿の微笑写真も載せられている。
  4. 参考:朝日新聞2010年12月3日(金曜)付、記事を一部参考。

関連項目