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'''中堀 由希子'''(なかほり ゆきこ、[[1971年]]11月14日 - [[1993年]]1月12日)は骨髄移植推進財団(のち公益財団法人日本骨髄バンク)の[[キャンペーンガール]]。21歳でこの世を去った。
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'''中堀 由希子'''(なかほり ゆきこ、[[1971年]]11月14日 - [[1993年]]1月12日)は骨髄移植推進財団(のち公益財団法人日本骨髄バンク)の[[キャンペーンガール]]。[[年齢#21歳|21歳]]でこの世を去った。
  
 
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[[愛知県]][[岡崎市]]生まれ。[[ニュージーランド]]留学中に慢性骨髄性[[白血病]]を発症・告知された。骨髄移植をすれば助かるのだが家族・親戚にはHLAが適合する人は見つからなかった。そのとき、由希子を訪れたのは自身も白血病になり母親からの骨髄移植で助かった大谷貴子。彼女の勧めで由希子は骨髄移植推進財団の骨髄移植啓発運動に参加を決意する。講演とCMやTVの撮影、そして闘病中に出会った恋人との日々。そして、[[アメリカ]]の骨髄バンクでHLAの適合者が見つかり、[[1992年]]11月に海を越えた骨髄の移送と移植が行われた。しかし、彼女の身体には移植後の拒絶反応を克服できる体力がなく、翌年1月12日、移植後60日にして彼女は返らぬ人となった。
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[[愛知県]][[岡崎市]]生まれ。[[ニュージーランド]]留学中に慢性骨髄性[[白血病]]を発症・告知された。骨髄移植をすれば助かるのだが家族・親戚にはHLAが適合する人は見つからなかった。そのとき、由希子を訪れたのは自身も白血病になり母親からの骨髄移植で助かった大谷貴子。彼女の勧めで由希子は骨髄移植推進財団の骨髄移植啓発運動に参加を決意する。講演とCMやTVの撮影、そして闘病中に出会った[[恋人]]との日々。そして、[[アメリカ]]の骨髄バンクでHLAの適合者が見つかり、[[1992年]]11月に海を越えた骨髄の移送と移植が行われた。しかし、彼女の身体には移植後の拒絶反応を克服できる体力がなく、翌年1月12日、移植後60日にして彼女は返らぬ人となった。
  
1月14日に行われた[[葬儀]]には友人ら約400人が参列。棺の中の由希子はバラの花に囲まれ、微笑を浮かべたような穏やかな表情だったという。法名は浄蓮院釈尼清由。
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1月14日に行われた[[葬儀]]には友人ら約400人が参列。[[棺]]の中の由希子はバラの花に囲まれ、[[微笑み|微笑]]を浮かべたような穏やかな表情だったという。法名は浄蓮院釈尼清由。
  
 
== 外部リンク ==
 
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2019年12月3日 (火) 10:32時点における版

中堀由希子

中堀 由希子(なかほり ゆきこ、1971年11月14日 - 1993年1月12日)は骨髄移植推進財団(のち公益財団法人日本骨髄バンク)のキャンペーンガール21歳でこの世を去った。

生涯

愛知県岡崎市生まれ。ニュージーランド留学中に慢性骨髄性白血病を発症・告知された。骨髄移植をすれば助かるのだが家族・親戚にはHLAが適合する人は見つからなかった。そのとき、由希子を訪れたのは自身も白血病になり母親からの骨髄移植で助かった大谷貴子。彼女の勧めで由希子は骨髄移植推進財団の骨髄移植啓発運動に参加を決意する。講演とCMやTVの撮影、そして闘病中に出会った恋人との日々。そして、アメリカの骨髄バンクでHLAの適合者が見つかり、1992年11月に海を越えた骨髄の移送と移植が行われた。しかし、彼女の身体には移植後の拒絶反応を克服できる体力がなく、翌年1月12日、移植後60日にして彼女は返らぬ人となった。

1月14日に行われた葬儀には友人ら約400人が参列。の中の由希子はバラの花に囲まれ、微笑を浮かべたような穏やかな表情だったという。法名は浄蓮院釈尼清由。

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